「アパマンショップ」の創業者の一人、株式会社三光ソフランホールディングス代表取締役社長・高橋誠一氏は、学生時代から「社長」以外は眼中になく、「億万長者になる」と決めていたという。
大学卒業後は実家の米穀店を継ぐが「背広を着てビジネスがしたい」の思いから宅建取引主任者の資格を取り、30歳で不動産業に参入。
すでに7店舗に増やしていた米穀店を切り盛りしつつ、孤軍奮闘する。業界用語が分からないことや、相手が信用できるかどうかに苦労し、銀行とのお付き合いも「銀行ローンって何よ?」と、一つひとつを自分の身体に叩き込んでいった。
売り手と買い手がなければ成立しない「商い」の世界、新規業者は警戒される中、大...
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お金
「アパマンショップ」の創業者の一人、株式会社三光ソフランホールディングス代表取締役社長・高橋誠一氏は、学生時代から「社長」以外は眼中になく、「億万長者になる」と決めていたという。
大学卒業後は実家の米穀店を継ぐが「背広を着てビジネスがしたい」の思いから宅建取引主任者の資格を取り、30歳で不動産業に参入。
すでに7店舗に増やしていた米穀店を切り盛りしつつ、孤軍奮闘する。業界用語が分からないことや、相手が信用できるかどうかに苦労し、銀行とのお付き合いも「銀行ローンって何よ?」と、一つひとつを自分の身体に叩き込んでいった。
売り手と買い手がなければ成立しない「商い」の世界、新規業者は警戒される中、大宮市内の不動産業者を毎月欠かさず訪問し、1年がかりで顔を売る。
やがて市内の高級中古物件「大宮プラザ」の仲介を手がけ、手づくりのチラシを団地1軒1軒のポストに投函。東急不動産以上の成果を上げた。
しかし、売買仲介はあくまでお客さまが中心。より精神的に落ち着ける状況を求め、3年後に建売業へ進路変更を決めた。
建売業で最初にぶつかったのは、「実績がなければ資金は貸せない」という銀行の壁だった。
最初の2区画は兄弟の力を借り、大工さんに頭を下げて何とかクリア。そこを越えると、建てれば売れる、また建てる。倍々ゲームですぐに40区画の開発を手がけ、儲かって笑いの止まらぬ状態へ。
しかし、ここで「待てよ」と周囲を見渡すのが、高橋氏の卓抜さ。「工夫のない彼らの物件が売れるのは何かおかしい」と思い切って建売から手を引く。
半年後に来たのは第2次オイルショック。「事業を拡大すると借金も大きくなり、つぶれるのも早い」という高橋氏の「拡大破滅型」回避の持論はここから生まれた。
そして管理業や相続対策という「累積型」のビジネスが考案され、現在のアパマンショップへとつながっていったのだ。
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