運慶展

22体、800年の時を超え -展覧会のみどころ-

■激動の時代、独自のスタイル築く 過去最大の展示

 運慶が生きた平安時代から鎌倉時代にかけては激動の時代だった。

 京を中心に権勢を誇った貴族が影を潜め、代わって各地で武家が台頭してゆく。20代の運慶が臨んだ最初の作品として知られる大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)(奈良・円成寺蔵)の完成から数年後の1180年、源頼朝が伊豆で挙兵し源平の争いが始まった。その年、奈良の東大寺や興福寺の伽藍(がらん)は、ほとんどが焼け落ち、戦火は各地に広がった。やがて東国鎌倉に幕府を置いた武家の時代がやってくる。

 新しい世の風は、運慶の作風にも影響を与えただろう。奈良を拠点に活動していたとみられる運慶は、平家滅亡の翌年1186年、武将北条氏の願いを受け、毘沙門天立像(静岡・願成就院蔵)を造っている。武士のように勇ましい顔立ちをし、腰をひねり、腕を上げ、いまにも動き出しそうな躍動感があふれている。力強く、リアリティーのある姿は、貴族の時代の仏像からは感じられない運慶独自のスタイルだ。

 運慶が仏像に求めた写実性は、八大童子立像(和歌山・金剛峯寺蔵)にもよく表れている。目には水晶でできた玉眼(ぎょくがん)を巧みに使い、現実感を際立たせている。

 運慶は職人たちを率い、源平の争いで荒廃した奈良の寺院の復興事業にも取り組んだ。古代インドの学僧兄弟を表す無著・世親菩薩(ぼさつ)立像(奈良・興福寺蔵)は、晩年に腕を振るった運慶芸術の集大成だ。深い精神性をたたえる高さ2メートルの像は、肖像彫刻の最高傑作とされる。

 貴族や武家をはじめあらゆる人びとが運命に翻弄(ほんろう)され、現世の苦しみの代わりに極楽往生を祈った時代。生きているかのような仏像に託されたのは「仏は確かにいる」という実在感だったのだろう。運慶はその卓越した能力によって人びとの願いに応えた。

 現在、運慶作あるいはその可能性の高い仏像は各地に計31体が残るとされている。運慶ゆかりの興福寺の中心堂宇である中金堂が2018年に約300年ぶりに再建されるのを記念して開かれる本展にはそのうち22体が集結し、これまでで最大の運慶展となる。

 運慶の父、康慶、息子の湛慶、康弁らも優れた仏像を残した仏師であり、彼らの作品も含めた合計80点あまりの貴重な文化財によって3世代が生み出した祈りの造形をたどってゆく。(大宮司弥生)

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